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武者のぼり(豆知識): 武者幟に描かれている絵柄の紹介

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 絵柄いろいろ(武者絵)


武者幟の絵柄は地域によって様々ですが有名な武将や合戦がテーマになっています。
武者幟は型染めです。型紙はそれぞれの染物工場(染物職人)により違います。
同じ合戦を描いた幟でも描かれている武将の顔やデザイン、登場人物は違っています。

兜の形や家紋で描かれいている武将。登場人物で描かれている合戦が分かってきます。
色々な幟旗を見ていますが描かれているのは誰か。調べるのも結構楽しいです。

代表的な絵柄と描かれている武将は
◆宇治川の先陣争い
  佐々木四郎高綱、梶原景季、畠山重忠、和田八郎 など

◆賤ヶ岳の戦い
  豊臣秀吉、加藤清正、福島正則、脇坂安治、片桐旦元 など

◆川中島
の戦い
  上杉謙信、武田信玄、高坂弾正 など

◆大阪夏の陣

  真田幸村、徳川家康、大久保佐衛門 など

◆関が原の戦い
  石田三成、大谷吉継、西田行長、徳川家康、小早川秀秋 など

◆太閤七人衆
  太閤秀吉、加藤清正、福島正則、片桐且元、平野権兵衛、粕谷武則、脇坂安治

◆五大将
  織田信長、太閤秀吉、徳川家康、上杉謙信、武田信玄 など

◆加藤清正の虎退治
  加藤清正、(虎)

◆牛若丸と弁慶
  牛若丸(義経)、武蔵坊弁慶


当店(九州・熊本)では「宇治川の先陣争い」、「加藤清正の虎退治」、「川中島の戦い」などが多く見られます。


宇治川の先陣争い

佐々木四郎高綱、梶原景季、畠山重忠

 

旭将軍と言われた木曽義仲が、勢いにのって遂に後白河法皇を閉じ込めるまでに至りました。そこで法皇は源頼朝に義仲を討つように命じました。頼朝は二人の弟、範頼と義経に命じ六万の兵をもって宇治に向かいました。
 義仲は勢田と宇治の二つの橋を落し、岸には柵を巡らせ水中には杭を打ったり、網を張るなど防戦の準備をしました。義経はこの様子を見て『この度の合戦に手柄をたてた者の名前を書き留めよう。またあっぱれ宇治川を渡る者があれば、敵に射さすな』と命令しました。
 この時、早や宇治川に馬を躍らせて先陣を競う梶原景季と、佐々木高綱がおりました。二人は頼朝の愛馬を貰い受けて出陣しました。景季は『磨墨』
(するすみ)、高綱は『池月』(いけづき)という優れた馬でした。高綱はこの合戦に是非とも名を挙げねばならぬ、どうかして勝ちたいと考えました。そこで高綱は『梶原殿、馬の腹帯が緩んでいるようだ』と言ったので、謀られたとは知らず景季は腹帯を引締めている間に、高綱は追い越して対岸に跳びあがり『佐々木四郎高綱、宇治川の先陣仕まつった』と名乗りを挙げました。このあと畠山重忠は馬を背にからい、いつもお前にはお世話になるからと言って渡り、ほかに和田・江崎・数十名の先陣争いの場です。

佐々 木高綱(ささき たかつな)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の四男として生まれ、京に住んでいたとされる。

『宇治川合戦之圖』 歌川国芳『平家物語』や『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。歌舞伎の『鎌倉三代記』にも登場し、非常に人気のある武士である。佐々木四郎と呼ぶ場合もある。

梶原 景季(かじわら かげすえ)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。通称は源太。官位は左衛門尉。
源頼朝に従い、治承・寿永の乱で活躍。父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。



 

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太閤清正三人絵

豊臣秀吉、福島正則、加藤清正

 

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い

 天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いです。
織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけました。
この賤ヶ岳の戦いを有名にしたのは、賤ヶ岳七本槍といわれる若い勇士でした。七本槍とは、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則。

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
尾張国愛知郡中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康らに託して没した。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

福島 正則(ふくしま まさのり)
母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。天正10年(1582年)の山崎の戦いの軍功で500石を知行し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた(他の6人は3000石)。その後も秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、天正15年(1587年)の九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。

加藤 清正(かとう きよまさ)
豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦して武功を発揮。肥後熊本の領主となる。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いで武功を挙げて肥後熊本藩主となった。
賤ヶ岳七本槍の一人として数えられるが、彼の武功は朝鮮の役におけるものが最も有名である。肥後熊本では現在においても人気が高い。智勇兼備の名将としてだけではなく、築城の名手としても有名である。明治43年(1910年)に従三位を追贈された。また、朝鮮の役での虎退治の伝説も有名である。

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太閤清正五人絵

太閤秀吉、脇坂安治、片桐旦元、福島正則、加藤清正

 

脇坂 安治(わきざか やすはる)
脇坂氏は近江東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。
天文23年(1554年)、田村孫左衛門の子として近江浅井郡脇坂庄で生まれる(異説として脇坂安明の実子ともいわれる)。はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、 明智光秀の与力として丹波・黒井城攻めなどで功を立てる。丹波の赤鬼といわれた敵将赤井直正から武勇を賞されて、貂の皮を拝領した。後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。 その後は、播磨・三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。天正11年(1583年)、近江国賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、その戦功により3000石を与えられた。柴田勝政を討ち取った説がある。小牧・長久手の合戦では伊勢・伊賀方面で手柄をあげ天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。

片桐旦元(かたぎりかつもと)
賤ヶ岳七本槍の一人です。七本槍とは、織田信長が本能寺で討たれた後、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いで活躍した、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、片桐旦元、加須屋真雄を指します。且元は大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城としましたが、病没し、後を嗣いだ孝利は大和龍田へ、且元の弟貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となったそうです。 且元は豊臣家の存続に苦心惨憺しますが、淀君らに二心あると疑われ、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」との句を詠みました。この且元の苦衷を劇化したのが坪内逍遥の『桐一葉』です。

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川中島三人絵

高坂弾正、上杉謙信、武田信玄

 

川中島の戦い

 日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いです。
いずれの戦いも、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称されています。


高坂弾正(たかさか だんじょう)
武田信玄・勝頼の二代に使える。武田二十四将のひとりでその中でも武田四名臣と言われる。海津城初代主となり、第4回川中島の戦いでは妻女山の攻撃の別働隊大将をつとめた。52才で病没。『甲陽軍艦』は高坂の遺記を基に書かれたもの。

上杉謙信(うえすぎ けんしん)
1530年、長尾為景の四男として生まれる。1548年、父の後を継いだ兄・晴景にかわり守護代となり越後の国を統一。1559年には、関東官領の地位を上杉憲政より譲り受けて上杉姓を名乗る。京を目指して能登・越中・加賀を平定したが、1578年、北条氏との戦いの出陣前に倒れ、49歳の生涯を閉じた。

武田信玄(たけだ しんげん)
風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬軍は戦国最強と評される。1521年、武田信虎の長男として生まれる。1541年、乱暴な父・信虎を追放し信濃の国・諏訪地方に勢力を伸ばし、さらに北信濃に進出して上杉謙信と対決を繰り返した。また駿河の国も手に入れて京を目指したが、1573年、徳川家康・織田信長の軍と戦いの最中、病気のため53才で亡くなった。

 

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上杉 謙信
武田 信玄
太閣 秀吉
加藤 清正 清正
八幡太郎義家


(上)織田信長(下)太閤秀吉

(上)徳川家康(下)上杉謙信

武田信玄

加藤清正の虎退治

加藤清正は、朝鮮出兵に赴いたとき現地で猛虎の群れと遭遇し、可愛がっていた部下の一人を食い殺されてしまいます。清正は烈火のごとく怒って虎の群れを襲撃、苦闘の末に見事敵討ちを果たしたといいます。この壮挙は日本兵の士気を挙げるのみならず、人食い虎に悩まされていた朝鮮の人々をも大いに喜ばせ、清正虎退治の武名が日本中に轟きました。

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牛若丸と弁慶


  牛若丸(義経)、武蔵坊弁慶


牛若丸は、平安時代の武将である源 義経の幼名。
河内源氏の棟梁である源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれ、その後、鞍馬寺に預けられ、京都・五条の橋で、弁慶と運命的な出会いをします。
後に兄である源 頼朝に加勢して、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼします。
牛若丸は、代表的な五月飾りとして古くから民間で親しまれてきました。

 

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 絵柄いろいろ(節句旗)

七福神

七福神とは、恵比寿、大黒、布袋、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人の七人の神様のこと で、福を運んでくるめでたい存在として、古くより親しまれてきました。七福神は めでたい吉祥画として盛んに描かれ、武者絵のぼりの図柄にも子供に幸多い人生を、との願いで描か れています。

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二宮金次郎

「二宮尊徳」 通称「二宮金次郎」 は出世のシンボルとして、江戸時代の中頃から男子誕生の喜びを広く世間に知らせるために戸外に幟(のぼり)として立てられるようになりました。
戦前に多かったと聞く二宮金次郎は、元気でたくましく、勤勉に育てよ。といった願いが込められています。

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恵比寿

恵比寿さまは七福神の一人で、大黒さまと共に「恵比寿大黒」と呼ばれ福の神の代表格とされて います。主に鯛を抱えた姿で描かれ漁業の神様、商売繁盛の商い神として古くから民間信仰の対 象となり親しまれています。

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高砂(たかさご)

熊手を持った翁(おきな)と箒を持った媼(おうな)が相生(あいおい)の松の下に立つ図柄は、高砂図の代表的なものです。 砂浜に老夫婦に鶴、亀、松など、夫婦の長寿と和合、家庭の永年の繁栄とを祈願して描かれています。

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神功皇后(じんぐうこうごう)

第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の后とされる神話上の人物が神功皇后です。神功皇后は新羅(しらぎ)制圧の後、第十五代応神天皇を生んだといわれます。
このことから母子健康の神様、安産の神様とされています。神功皇后は母子健康を願い、応神天皇が生まれた場面が描かれています。 応神天皇を抱くのは武内宿禰(たけのうちすくね)(長命で五人の天皇に仕えたとされる神話上の人物)です。

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鯉の滝昇り

鯉の滝昇りは、立身出世祈願としてなじみの深い図柄です。
絵のぼりでも江戸初期から、子供の立身出世祈願として盛んに描かれており、最も古い図柄の 一つです。また江戸中期になると、庶民が絵のぼりの「鯉の滝昇り」の図柄をヒントに、鯉の形を 模した吹流しである、「こいのぼり」を開発したとされています。

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鶴亀、松竹梅

鶴亀、松竹梅の福相は最近でも鯉のぼりと一緒に飾る「吹流し」でも多く使われていますが幟は珍しいものです。

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桃太郎 / 金太郎

節句旗は縁起物の絵柄の他にも昔話のヒーローも登場します。金太郎は絵画に描かれる際は普通赤い肌に描かれます。そのわけは江戸時代に疱瘡(ほうそう)が流行し、疱瘡には朱色が効く、とされていた為です。金太郎の真っ赤な肌は、子供の無病息災を願い描か れてきました。

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 絵柄いろいろ(名前旗)

 子どもの名前を染上げた幟の事を名前幟、又は出世幟と言います。
一般的には上部に「家紋」、真ん中に「名前」、下部に「絵柄」が入ります。

  

 

下部の「絵柄」分部には次のような絵が多く描かれます。

鯉の滝昇り
菖蒲と兜
鶴亀

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